ラモス瑠偉「真っ白という言葉の意味を初めて知った」ドーハの悲劇【二宮清純】

ラモス瑠偉「真っ白という言葉の意味を初めて知った」ドーハの悲劇【二宮清純】

日本サッカーの近代化に貢献したオランダ人のハンス・オフトさんが日本代表監督に就任したのが1992年3月、プロリーグのJリーグが華々しく開幕したのが93年5月。日本サッカーにとって「青春」ともいえるこの時期、その中心にいたのが代表の司令塔で、"ミスター・ヴェルディ"と称されたラモス瑠偉さんでした。

■嫌われていたイラク

そのラモスさんが「頭の中は真っ白。真っ白という言葉の意味、初めて知ったよ」と、しみじみと振り返る試合があります。

94年サッカーW杯米国大会出場をかけたアジア地区最終予選最終節の日本対イラク戦です。この試合は93年10月28日、カタール・ドーハのアル・アリ・スタジアムで行なわれました。後に"ドーハの悲劇"と呼ばれる歴史的な一戦になります。

出場権が得られるのは上位2カ国。日本は初戦のサウジアラビア戦に引き分け、続くイラン戦を落としましたが、第3戦の北朝鮮戦、第4戦の韓国戦に勝ち、イラクとの最終決戦を迎えました。

勝てば、その時点で日本にとって初の本大会出場が決定。引き分けでも他会場の結果(サウジアラビア対イラン、韓国対北朝鮮)次第では、米国行きの可能性を残していました。

当時のイラクはFIFA(国際サッカー連盟)にとっても米国にとっても、歓迎すべからざるチームでした。

90年8月にイラクのサダム・フセイン政権が隣国のクウェートに侵攻し、米国を中心とする多国籍軍によって撃退されたものの、湾岸戦争後も、国連主導による経済制裁は継続中で、サッカーの世界でもイラクには冷ややかな視線が向けられていました。

4試合を終え、イラクは1勝1敗2分け。W杯出場に首の皮一枚でつながっていました。

それでも、試合前は「日本有利」の声が支配的でした。レフェリーも、少なくとも日本に不利な笛は吹かないだろう、と話す協会関係者もいました。

■「USA45ミニッツ」

前半5分、日本はカズこと三浦知良のシュートで先制します。ハーフタイムでオフト監督はロッカールームのボードに「USA45ミニッツ」と書いたといいます。米国大会まで、あと45分という意味です。

しかし、この言葉で選手たちは浮き足だってしまった、と代表コーチの清雲栄純さんは、無念の口ぶりで振り返りました。
「選手たちは興奮して、勝手にしゃべり始めた。ラインを上げるなど、細かい修正をしようとしたのですが、誰も聞いていなかった」

後半、イラクは息を吹き返します。ラモスさんによると、フセイン大統領の息子で、イラクの五輪委員会委員長でもあったウダイ氏がスタンドから降りてきて、「オマエら、今日負けたら、全員戦争に行かせてやる!」と叫んだというのです。「それで彼らの眼の色が変わってしまった......」

1対1の後半24分、ラモスさんの絶妙なスルーパスからDFラインの裏に抜け出した中山雅史さんが蹴り込み、2対1。オフサイド気味に見えましたが、「ラインズマンが旗をあげないことは最初からわかっていた」とラモスさんは言います。

アディショナルタイム。イラクのコーナーキックの場面でラモスさんはレフェリーに「終わりか?」と聞きます。返ってきた言葉は、イタリア語でイエスを意味する「スィー」。ショートコーナーは想定外でしたが、ラモスさんはプレー再開と同時に笛が鳴るものとばかり思っていました。

ところがレフェリーは笛を吹かず、イラク選手のヘディングシュートは緩やかな弧を描いてゴール左隅に吸い込まれていきました。

2対2。レフェリーが試合終了の笛を吹いたのは、この50秒後のことでした。

二宮清純

二宮清純 (ライター)

フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。

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