スイッチヒッターで名を成した広島・高橋慶彦。「僕は飽きない天才」【二宮清純】
スポーツ 連載コラム
2026.05.21
広島カープは1979、80年と2年連続日本一を達成しています。山本浩二さん、衣笠祥雄さん、江夏豊さんらレジェンド級のベテランが存在感を発揮する中、「1番-ショート」として若鯉のようにフィールドをはね回っていたのが、まだ20代前半の高橋慶彦さんでした。
■「足でメシが食えるぞ!」
広島、ロッテオリオンズ、阪神タイガースの3球団でプレーした高橋さんは通算1826安打のうち1741安打を広島でマークしています。
本人も、上層部との確執がなければ、広島一筋のプロ野球人生を送りたかったようで、後年、私に「正直言って、カープを出た時点で、"オレの野球人生は終わった"と思った。カープは僕にとって野球のすべて、いや人生のすべてですよ」と語りました。
高橋さんは東京の城西高から、75年、ドラフト3位で広島に入団しました。3年夏には「4番-投手」で甲子園に出場しています。
担当したスカウトの木庭教さんに指名した理由について聞くと、俊足に加え、「男前じゃったから」と答えました。
「ウチのような地方球団は、弱くなると、途端に客が入らなくなる。今は強いけど、数年後はわからん。アイツは足が速い上にマスクがいい。何年後かにはウチのスターになると思うたんじゃ」
プロに入ってすぐ野手に転向した高橋さんは、外野も内野もやりました。入団3年目の77年、主にショートとして58試合に出場し、2割9分2厘の高打率を残しました。盗塁も14。監督の古葉竹識さんからスイッチヒッター転向を命じられたのは、何とシーズン中でした。
「慶彦、プロ野球は足だけでメシが食えるんだぞ!」
古葉さんがスイッチヒッターを欲したのには、理由があります。球団創設26年目にして初のリーグ優勝を果たした75年、広島にはリッチー・シェーンブラム(通称シェーン)というスイッチヒッターの外国人がいました。
■3度の日本一に貢献
以下は生前、古葉さんから聞いた話です。
「当時のウチは選手層が薄かった。スイッチヒッターなら、たとえば試合終盤、相手が左のリリーフを出しても代える必要がない。これは大いに助かりました。しかも慶彦には、シェーンにはない足という大きな武器があった。彼が1番に定着すれば、得点力が増す。クリーンアップには浩二、衣笠、外国人と揃っていましたから......」
もっとも昨日まで右で打っていたバッターが、いきなり明日から左で打て、と言われてもうまくいくわけがありません。
それでなくても高橋さんは不器用なタイプでした。不可能を可能にしたのは、「寝る間も惜しんでの猛練習」でした。
それが、どれほど凄まじいものだったかについては、以下の回想が物語っています。
「マメができて手はボロボロになっているから、バットから離したくないんです。だから眠るときもバットを握ったままでした。朝起きると手がジャンケンのグーのような状態になっている。そのまま固まってしまって、開こうにも手が開けなかった。
間違って女のコのストッキングに触ったら、バリバリって破れてしまいました。それくらいマメがひどかったんです。それでも、一度も練習が嫌いになったことはなかった。バットを振れば振っただけカネになりますからね。簡単な理由ですよ。
自分で言うのもなんですが、僕は天才なんです。"飽きない天才"(笑)。一日中、バットを振っていても飽きない。これだけは、誰にも負けなかったですね」
甘いマスクに似合わぬ練習のムシ。そのギャップも、高橋さんの魅力のひとつでした。
広島は79、80、84年と、3度日本一を達成しています。高橋さんはチームの主力として、そのすべてに貢献しました。
二宮清純 (ライター)
フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。
二宮清純 (ライター)
フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。




