黒船B・ホーナーの豪打。R・バースいわく「300本は打てる!」
スポーツ 連載コラム
2026.07.09
MLBのバリバリのFA選手が日本にやってくる――。今では考えられないことです。だが、昔は違っていました。今から39年前の1987年、米国から"黒船"と呼ばれた選手が来日し、大旋風を巻き起こしました。
■全選手ドラフト1位
その人物の名前はボブ・ホーナーさん。先頃、海の向こうから突然、訃報が飛び込んできました。引退後に暮らしていたテキサス州アービングで息を引き取ったというのです。享年68。死因は明らかになっていません。
ホーナーさんは輝かしい球歴の持ち主です。1978年6月のMLBドラフトで、アリゾナ州立大学の学生だったホーナーさんは、アトランタ・ブレーブスから全選手中1位指名を受け、入団したのです。
これだけでも驚きなのに、ホーナーさんはマイナーリーグでのプレーを経験することなく、同年いきなりMLBデビューを果たし、打率2割6分6厘、23本塁打、63打点をあげ、ナ・リーグの新人王に輝きます。ブレーブスは76、77年と2年連続最下位で、選手層が薄かったこともホーナーさんには幸いしました。
2年目の79年は打率3割1分4厘、33本塁打、98打点。翌80年は打率2割6分8厘、35本塁打、89打点。82年にはブレーブス史上初のキャプテンとなり、地区優勝に貢献しました。
そして86年には、モントリオール・エクスポズ戦で1試合4本塁打を記録しています。打ちだしたら止まらないのが、ホーナーさんの特長でした。
ところが、この年のオフ、ホーナーさんは年俸を巡って球団と対立します。450万ドル(約6.5億円)の3年契約を打診したものの、球団はこれに応じず、ならばとFAを宣言したのです。本人には自宅に近いテキサス・レンジャーズでプレーしたい、という願望があったようです。
当時のMLB球団には、FA選手を嫌う風潮がありました。年俸の高騰による球団経営の圧迫を恐れたのです。
ホーナーさんいわく「オーナー間の締め出し作戦」により、行き場を失なったFA選手に手を差し伸べたのが、なんとヤクルトスワローズでした。
■「とにかく野球をやりたい」
球団が提示した条件は1年3億円(推定)。当時の日本人の最高給取りは、ロッテオリオンズから中日ドラゴンズに移籍したばかりの落合博満さんの1億3000万円(推定)でした。
ホーナーさんは、どんな心境だったのでしょう。
<「とにかく野球をやりたい」という一念――この強い思いが、さまざまな不安や心配を押しのけ、なにものにもまさって決意を促したといっていいだろう>(自著『地球のウラ側にもうひとつの違う野球があった』日之出出版)
日本でのデビューは87年5月5日の阪神タイガース戦。左腕の仲田幸司さんから名刺代わりの一発を神宮球場のライトスタンドに見舞いました。
しかし、これはほんのジャブでした。翌日の試合で、右腕の池田親興さんから、なんとまとめて3本の本塁打を叩き込んだのです。
打球方向はレフト、左中間、バックスクリーン。本田圭佑さん風に言えば、「1にワォ! 2にワォ! 3にワォ!」です。いずれも打った瞬間にホームランと分かる"音速の打球"でした。
85年、86年と3冠王に輝いたランディ・バース(阪神)さんは目を丸くして、こう言いました。「(ホーナーなら)300本は打てる!」
米国ではマイナー暮らしが長かったバースさんからすれば、衝撃の打球だったということでしょう。
この年、ホーナーさんは95試合ながら、打率3割2分7厘、31本塁打、73打点と前評判に恥じない成績を残し、契約通り、わずか1年で日本を去りました。
♫はやてのように現れて、はやてのように去っていく
とは「月光仮面」の主題歌の歌詞(作詞・川内康範)ですが、それを地でいくホーナーさんでした。
二宮清純 (ライター)
フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。
二宮清純 (ライター)
フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。




