名王者ガッツ石松、激戦区ライト級制した「左ジャブあっての幻の右」【二宮清純】
スポーツ 連載コラム
2026.06.18
ボクシングの名王者にして、俳優やタレントとしても異彩を放ったガッツ石松さん(本名・鈴木有二)が、さる6月2日、肺炎のため亡くなりました。76歳でした。
■七転び八起き
まさに"七転び八起き"を絵に描いたようなボクサー人生でした。
ガッツさんが世界中の精鋭たちが集まる激戦区のライト級(WBC)を制したのは、1974年4月11日のことです。
ガッツさんのそれまでの戦績は42戦26勝(14KO)11敗5分け。世界王座に就く前に、11敗もしていました。
とりわけ70年6月6日、イスマエル・ラグナ選手(パナマ)の持つWBA・WBC世界ライト級王座に挑戦し、13回TKO負けを喫してからは、これを含め4連敗。このあたりで花束を腕に抱きながら、テンカウントゴング(引退)を聞いていてもおかしくありません。
ところがガッツさんは何度も何度も立ち上がり、悲願の世界王者となったばかりではなく、そのベルトを5回も防衛したのです。通算戦績は51戦31勝(17KO)14敗6分け。とても世界王者のレコードとは思えません。
戴冠に成功したロドルフォ・ゴンザレス(メキシコ)戦からして、ガッツさんの勝利を予想する者は、ほぼ皆無でした。「相手のKO率は8割を超えていた。そりゃ誰だってオレに勝ち目はないと思うよね」。生前、ガッツさんは、さらりとこう語りました。
舞台となった東京・日大講堂は、空席が目立ちました。春闘にぶつかったことに加え、ガッツさんの頼りない戦績が、客足を遠ざけたのです。そんな中、ガッツさんにとっての幸運は、1月に行なわれる予定だったこのタイトルマッチが、3カ月後の4月に延期されたことでした。実は調整中、ゴンザレス選手が毒ぐもに嚙まれるアクシデントに見舞われ、その間、しっかり走り込むことができたというのです。
ガッツさんの弱点は減量苦からくるスタミナ不足でした。それが徹底した走り込みにより、弱点を克服できたというのです。その意味では、運もガッツさんに味方したと言えるでしょう。
■光る言葉のセンス
試合を振り返りましょう。3回、ゴンザレス選手の右がガッツさんのアゴにクリーンヒット。ガッツさんの腰がガクンと落ち、足元がふらつき始めます。
これまでのガッツさんなら、ここで音を上げていたところですが、持ちこたえます。徹底した走り込みがピンチを救ったのです。
一進一退の攻防に決着がついたのは8回でした。1分過ぎ、連打からの左フックで王者をぐらつかせ、得意の右を打ち抜き、最初のダウンを奪います。世に言う"幻の右"です。
ひどかったのはレフェリーです。カウントが遅く、王者に味方しているようにさえ映りました。
ガッツさんはさらに追い打ちをかけて2度目のダウン。スリップダウンと判断したレフェリーは、キャンバスに仰向けになった王者を、今度は引きずり起こそうとします。不公平なレフェリングに激怒した米倉健司会長とエディ・タウンゼントトレーナーが、ロープをくぐって中に入り、レフェリーに抗議しようとしたのは語り草です。
深刻なダメージを負ったゴンザレス選手にガッツさんはラッシュをかけ、3度目のダウン。2分12秒KO勝ち。日本人、いやアジア人が初めて激戦区のライト級を制した瞬間でした。
引退後、この試合で一躍、有名になった"幻の右"について問うと、こう説明してくれました。
「種明かしをすれば、あれはワンツー。よく"左は世界を制す"というけど、あれは本当。オレの場合、左を出してから、右までが速い。だから相手は右が見えない。左ジャブあっての"幻の右"なんだよ」
ところで、この"幻の右"の名付け親はガッツさん自身。ボクシングとともに、言葉のセンスも光っていました。
二宮清純 (ライター)
フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。
二宮清純 (ライター)
フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。




