攻めだるまと恐れられた池田の名将・蔦文也「ネットを越えていけ!」【二宮清純】

攻めだるまと恐れられた池田の名将・蔦文也「ネットを越えていけ!」【二宮清純】

早いもので、お亡くなりになってから、もう25年がたちました。四国の山あいにある県立高の池田(徳島)を春2回、夏1回の優勝、春1回、夏1回の準優勝に導いた蔦文也さんは、高校野球史にその名を刻む名将です。数々の逸話とともに、蔦野球を振り返りましょう。

■「さわやかイレブン」

蔦さんの名前が、一躍全国に知れ渡ったのは、1974年のセンバツです。「さわやかイレブン」と呼ばれた、わずか11人の部員で、準優勝を果たしました。

この時のエースは、後に四国銀行に進み、社会人野球でも活躍した山本智久さん。小柄な選手が多い中にあって、180センチの長身は目を引きました。決勝戦では1対3で報徳学園(兵庫)の軍門に下ったものの、ひとりで5試合を投げ抜きました。

蔦野球といえば、金属音が響き渡る豪快な攻撃野球が想起されますが、この頃は、機動力を駆使した、いわゆるスモールベースボールを得意にしていました。

その象徴が、1回戦の函館有斗(北海道)戦で見せた奇襲でした。なんと序盤で、トップバッターの雲本博さんがホームスチールを決めたのです。

それについて山本さんは、「打席に入っていたのは4番の上浦秀明。実はこのコンビで、よく(ホームスチールを)やっていたんですよ。やるかな、と思っていたら、本当にやった。ウチの持ち味が出て、これでいけるぞ、となりました」と語っていました。

11人では、練習にも支障をきたします。そこで、蔦さんは自らがバッティングピッチャーを買って出ました。ちなみに蔦さん、1年間だけ在籍した東急フライヤーズでは、5試合に登板し、0勝1敗、防御率11.70という記録を残しています。

山本さんによると、当時の池田は最初から部員不足だったわけではありません。山本さんには15人の同級生がいました。それが夏が終わる頃には、6人にまで減っていたそうです。

後に蔦さんは、「ワシが厳しくし過ぎたからみんな辞めて11人になってしもうたんじゃ」と語っています。

高校野球のバットが木製から金属製に切り替わったのは、この年の夏からです。すなわち、池田が山本投手を中心にした守り勝つ野球で、決勝にまでコマを進めた74年のセンバツは、木製バットが使用された最後の甲子園大会だったのです。

高野連が金属バットを採用した背景には、73年に発生したオイルショックがありました。これにより木材価格が急騰し、スポーツ用品店に陳列されていたバットの値段も、一気にはね上がってしまったのです。窮状を訴える現場の声を、高野連は無視することができなくなりました。

■恐怖の"山びこ打線"

その金属バットの利点を最大限、いかしたのが蔦さん率いる池田でした。82年の夏、池田は3番ライト・江上光治(2年)、4番ピッチャー・畠山準(3年)、5番レフト・水野雄仁(2年)を中心とする強力打線で、6試合計85安打(うち7本が本塁打)を放ち、頂点に駆け上がったのです。

サードを守っていた木下公司さんは、8番ながら打率4割、1本塁打、5打点を記録し、"山びこ打線"を支えました。

その木下さんから面白い話を聞きました。

「(池田の練習で)衝撃的だったのはキャッチボールがなかったこと。普通はランニングしてからキャッチボールですけど、それがないんです。グラウンドを1、2周すると、すぐにバッティング。アップもありませんでした」

――さすが攻めダルマ(笑)。

「バッティング練習は早朝もやるんです。これはマシンを3台並べてのフリーバッティング。午後からはシートバッティング。守備はノックよりも"生きた打球"の方がいいということで、シートバッティングの打球を捕っていました。まあ練習の8割はバッティングに費やしていましたね」

山あいにある池田のグラウンドは狭く、レフトのフェンスまでは95メートルくらいでした。ネットの向こうは国道32号線。普通の指導者なら、ネットの向こうが気になるところでしょう。ところが蔦さんは「ネットを越えていけ!」と選手たちに発破をかけ続けました。

越えた先に何があるのか――。蔦さんは「それはワシのロマンじゃ」と目を細めて語っていました。

1992年、監督勇退に伴い、蔦さんは長年の功績を称えられ「池田町名誉町民」第1号に選ばれました。地元のみならず、全国の高校野球ファンから愛され、慕われた文字通りの名将でした。

二宮清純

二宮清純 (ライター)

フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。

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フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。

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