掛布雅之、ハングリー精神の原点。「いつかオレもあんな給料袋を」【二宮清純】
スポーツ 連載コラム
2026.04.02
プロ野球選手の報酬は、通常、年俸を12等分して月給として支払われます。現在はもちろん銀行振込ですが、かつては給料袋による手渡しでした。
■「3億円事件」の影響
一般社会で、給料が「正式」に手渡しから銀行振り込みになったのは1988年からです。厚生労働省の「昭和63年1月1日基発1号」通達により、労働者の同意を得た場合に限って銀行口座への給与振り込みを認める方針を示したのです。
しかし、実際には、それよりも早く銀行振り込みに移行していた企業や団体は少なくありませんでした。そのきっかっけとなったのが68年12月に東京・府中市で発生した「3億円事件」です。手渡しだと、銀行からの現金輸送車が狙われやすいため、リスクをヘッジするために振り込みが奨励されたというのです。
プロ野球に話を戻しましょう。昔の選手に話を聞くと、70年代後半までは、概ねどの球団も手渡しだったようです。
「昔はよかったよ。給料が出ると、すぐに銀座に直行したもんな。ところが銀行振り込みになると、女房が管理するから、昔のように遊べなくなっちゃったよ」
ある在京球団の元スター選手は、苦笑を浮かべてそう語っていました。
後に"ミスター・タイガース"と呼ばれる掛布雅之さんが、習志野高(千葉)から阪神タイガースに入団したのは74年のことです。テスト生同然のドラフト6位指名でした。
1年目の年俸は両リーグ最低の84万円。月給に換算すると、わずか7万円。その中から寮費と道具代が天引きされるため、手にする給料は5万円を切っていたと言います。
「当時は銀行振り込みではなく手渡しだったため、25日のゲームが終わるとマネジャーの部屋に給料をもらいに行くんです。すると、選手全員の給料が並べて置かれてある。
その中で一番、薄っぺらいのが僕の給料袋。小銭が入っていなかったら風で飛んで行ってしまうんじゃないかと思えるほど頼りない(笑)。でも少ないな、とは思わなかった。むしろ好きな野球でおカネをもらっていいのか、という感覚でした」
■田淵幸一への憧れ
テスト生同然のドラフト6位とはいえ、掛布さんの背番号は「31」。これは前年まで阪神の中軸を打っていたウィリー・カークランドさんが付けていたものでした。球団は、ひそかに期待していたということでしょう。
再び掛布さんです。
「カークランドといったら、外国人選手でありながら田淵幸一さんと並ぶタイガースの顔。その背番号を僕がつけている。もう、うれしくって何度も鏡ごしに背番号をのぞいたものですよ」
本人も語っているように、当時のタイガースの顔は「4番・捕手」の田淵さんでした。72年=34本塁打、73年=37本塁打。カクテル光線に吸い込まれるようにレフト上空に高々と舞い上がるホームランは、"甲子園の華"でした。
「給料をもらいに行くでしょう。一番立派なのが田淵さんの給料袋。これは横にしても立っちゃうんです。それをジロッと横目で見ながら"オレもあんな給料袋を手にする日がくればいいなァ......"と漠然と憧れた。もっとも、その頃は目標というより夢の世界でしたけどね」
2年目にレギュラーに定着した掛布さんは、3年目から4年連続で3割台をマークし、6年目の79年には48本塁打で初のホームラン王に輝きます。82、84年にもホームラン王。そして85年には4番として打率3割、40本塁打、108打点を記録し、21年ぶりのリーグ優勝、2リーグ分立以降初の日本一に貢献したのです。現在はOB会長として、古巣をサポ―トしています。
二宮清純 (ライター)
フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。
二宮清純 (ライター)
フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。




