金3個のレジェンド新田佳浩を育てた荒井秀樹「裸の付き合いが大事」【二宮清純】

金3個のレジェンド新田佳浩を育てた荒井秀樹「裸の付き合いが大事」【二宮清純】

パラスポーツの世界にも名伯楽はいます。今回のミラノ・コルティナ大会も含め、パラリンピックに7大会連続で出場し、金3、銀1、銅1の計5個のメダルを獲得しているパラノルディックスキー新田佳浩選手を発掘、育てた荒井秀樹さん(現・日本選手団副団長、北海道エネルギースキー部監督)です。

■「片腕の凄い選手」

西日本とはいえ、中国山地の北東に位置する岡山県栗倉村は豪雪地帯として知られています。そこで生まれ育った新田選手が左腕を失ったのは、3歳の時です。「痛みの記憶はありませんが、その時の状況は鮮明に覚えています」と新田選手は、かつて私に語り、続けました。

「両親が共働きのため、私は祖父母に面倒を見てもらっていました。その日も両親は出かけていて、祖父が農作業に出るためコンバインを動かし始めたのです。そのコンバインに藁が引っかかっていて、それを取ろうとした時に、左腕を巻き込まれてしまいました。すぐに病院に搬送されたのですが、それ以降の記憶はありません。気付いたら、ベッドの上で左腕に包帯が巻かれていました」

――家族はもちろんですが、特におじいさんは辛かったでしょうね。
「そう思います。でも退院してきて父が最初に言ったのは、"けがをしたのは佳浩の責任で、おじいちゃんやおばあちゃんの責任ではないから、誰かを責めるのはやめなさい"ということでした」

新田選手は4歳の時にスキーを始めました。父親がアルペンの板を買ってきたのがきっかけでした。小学3年生からは、健常者にまじって一般の大会に参加、全国中学校スキー大会にも出場しました。

「片腕の凄い選手がいる」
荒井さんの耳に、そんな話が飛び込んできたのは、今から30年以上前のことです。

当時、荒井さんはノルディックスキーのヘッドコーチとして、1998年に開催される長野パラリンピックに向け、選手強化に乗り出そうとしていました。

しかし前途は多難でした。なぜなら、当時の日本に、世界と伍して戦えるような選手はいませんでした。競技委員長の和田光三さんは、「荒井君、2年後(長野大会)に、送り出せる選手がいるかねえ」と心配そうな表情をしていたといいます。

■「ダイヤモンドの原石」

そこに現れたのが新田選手です。荒井さんの目には「ダイヤモンドの原石」のように映りました。

こうと決めたら、すぐ行動に移すのが荒井さんです。岡山県のスキー連盟に問い合わせ、新田選手が西粟倉中の2年生だということを突き止めました。

ついに、"原石"と対面する日がやってきました。しかし、父親から返ってきた言葉はつれないものでした。

「ウチの子は障がい者として育てていない」
「佳浩はパラリンピックに出せない」

荒井さんは、パラリンピック、パラスポーツの認知度の低さを嫌というほど実感したといいいます。

それでも諦めないのが、荒井さんの真骨頂です。やっとの思いで口説き落とし、"二人三脚"でのパラリンピック挑戦が始まったのです。

以前、荒井さんに、信頼関係の築き方について聞いたことがあります。

返ってきた言葉がユニークだったので、最後に、それを紹介しましょう。
「これは先輩から教えてもらった秘訣ですが、"選手と一緒にふろに入るといいよ"と......」

――ほう、風呂ですか?
「大浴場で、車いすの選手や目の見えない選手など、いろいろな障がいのある選手と裸の付き合いをすると、その障がいのことも、選手のこともよくわかるようになる。新田選手も、一緒に風呂に入ったことで、右腕の脇の下にアザがあることを知りました」

アザは内出血の影響だったそうです。それほどまでの大事故を乗り越えてのパラリンピック挑戦、そして5つのメダル。夢への"二人三脚"は、まだ続いています。

二宮清純

二宮清純 (ライター)

フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。

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