長野五輪ジャンプ、原田雅彦の大飛行「地球に向かって近付いていく感覚」【二宮清純】

長野五輪ジャンプ、原田雅彦の大飛行「地球に向かって近付いていく感覚」【二宮清純】

1992年のアルベールビル大会を皮切りに、94年リレハンメル大会、98年長野大会、2002年ソルトレイクシティ大会、06年トリノ大会と、5大会連続で冬季五輪に出場した原田雅彦さんは、現在、全日本スキー連盟会長の要職にあります。2月に開幕するミラノ・コルティナ大会では、日本選手団副団長としてチームジャパンを支えます。

■降り続く雪と突風

原田さんは、5回の五輪で3つのメダル(94年リレハンメル大会団体銀、98年長野大会団体金、同個人ラージヒル銅)を胸に飾っています。

その中で、最も多くの国民が記憶しているのは、長野での団体金メダルではないでしょうか。始まりから終わりまで、約4時間。見る側はジェットコースターに乗せられているような心境でした。

温暖な四国生まれで、滅多に雪を見たことのなかった私にとって、ジャンプ競技が行なわれた長野県白馬村の風景は、まるで絵葉書のようでした。

しかし、試合当日(2月17日)は違っていました。この日、白馬は朝から吹雪に見舞われ、個人ラージヒルが行なわれた前々日には、はっきりと確認できたシャンツェ後方にそびえる山の稜線が、灰色の彼方にくすんでいました。

降り続く雪と突風のため、トライアルジャンプは途中でキャンセルされました。天気のいい日には、カラマツやスギの間を楽しげにわたっているシジュウカラも、この日ばかりは森の中で、じっと息を潜めているようでした。

日本の団体メンバーは、岡部孝信さん、斎藤浩哉さん、原田さん、船木和喜さんの4人。今でも現役を続ける葛西紀明さんはサブに入っていました。

4年前のリレハンメル大会で、金メダルを目前にしながら、アンカー原田さんの失速で銀メダルに終わった"日の丸飛行隊"にとって、長野での金メダルは、悲願というよりも使命でした。

しかし、第3グループのジャンプが後半に入ってから、白馬の女神が突如としてヒステリーを起こしてしまいます。

13チーム中、10番目に登場したオーストリアのシュテファン・ホルンガッハー選手は104.5メートル。フィンランドのエース、ヤンネ・アホネン選手は完璧なテイクオフを決めながら、101メートル。ドイツのハンスイェルク・イエックレ選手も96メートル。

■心地良いメロディー

助走路には新雪が積もり、吹雪により視界はゼロ。およそ考えられ得る最悪の条件下で飛び出した原田さんに至っては、79.5メートル。続く船木さんも118.5メートルと精彩を欠き、日本は順位を4位に落としました。

もし、このまま天候が回復しなければ、1ラウンドの結果のみで順位が決まるため、日本はメダルなしに終わってしまいます。

この時の心境を、後に原田さんは、私にこう語りました。
「長い間、この競技をやっていると"これはダメだ"というのがすぐわかるんです。K点(120メートル)まで飛んで、だいたい3~4秒。あの時、私は1秒かそこらで落ちたはず。もう頭の中は真っ白でした」

そして続けました。
「正直言って、また(リレハンメルの時と)同じ状況が来てしまったんだと思うと本当につらかったですよ......」

しかし、白馬の女神は原田さんを決して見捨てませんでした。1時間後にスタートした第2ラウンド。天候も回復し、2.1メートルという絶好の向かい風を得て飛び出した原田さんはバッケンレコードタイ(当時)となる137メートルを飛び、金メダルに近付きました。

「地球に向かって、ゆっくりゆっくり近づいていく。あれは今まで経験したことのない感覚でした」

そして、アンカーの船木さんに向けての名セリフが飛び出したのです。
「フナキ~、フナキ~」

まるで地獄から天国に駆け上がるような大逆転の金メダル。ゲレンデに流れた大会のテーマソングである『WAになっておどろう』のメロディーが、心地良く胸に響きました。

二宮清純

二宮清純 (ライター)

フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。

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