山下泰裕、愛弟子・井上康生への金言 「五輪に魔物なんか棲んじゃいない」
スポーツ 連載コラム
2025.11.27
1984年ロサンゼルス五輪・男子柔道無差別級金メダリストの山下泰裕さんは、他にも全日本選手権9連覇を果たし、203連勝という途轍もない記録をつくった不世出の柔道家です。
■柔の道を極める
その山下さんは2023年10月に、箱根の露天風呂で転倒、頚椎を損傷し、車いす生活になりました。
しかし、長期のリハビリを経て、東海大学での講義に復帰しました。
「柔道を通して学んだことを人生で生かしていくのが柔道の道。首から下が動かなくなって、私は真の柔道家かどうかが試されている」(共同通信2025年10月17日配信)
競技者として柔道の頂点を極めてもなお、柔の道を極めようとする山下さんにしか、口にできない言葉です。
しかし、それ以上に私は山下さんのこの言葉が忘れられません。
「オリンピックに魔物なんか棲んじゃいない。強ければ勝つ、弱ければ負ける。それだけのことだ」
これは弟子である井上康生さんに向けて発したものです。
これには少々説明が必要でしょう。
2000年のシドニー大会は、井上さんにとって初めてのオリンピックでした。シドニーに発つ前、井上さんは山下さんのもとを訪ね、こう訊きました。
「先生、オリンピックに魔物は棲んでいるんですか?」
返ってきた言葉が、先のものでした。
この一言でハッと我に返った井上さんは、オール一本勝ちという離れ業で、男子100キロ級を制しました。
■オール一本勝ちで金
内容は次の通りです。
2回戦 ヨスバニ・ケセル(キューバ) 大内刈り 18秒
3回戦 ダニエル・ゴーイング(ニュージーランド) 一本背負い投げ 16秒
4回戦 アリエル・ゼエビ(イスラエル) 内股 2分39秒
準決勝 ルイジ・ギド(イタリア) 総合勝ち 2分21秒
決勝 ニコラス・ギル(カナダ) 内股 2分9秒
決勝のギル戦は、まるで身体芸術を見るようでした。大内刈りをフェイントにして、相手の重心を崩し、前に出てきたところを電光石火の内股。ギル選手はクルリと1回転し、肩から畳に落ちました。それは、まさに「魔物」すら寄せつけない強さでした。
本番の2日前には、こんなこともありました。男子100キロ超級に出場する篠原信一さんと練習を行なった際、井上さんは先輩に対して、次のような行動を取ったのです。
以下は篠原さんから聞いた話です。
「僕は2回、背負いで投げられた。ガチの練習で投げられたのだから『オレは調子悪いんだな』と思ってしまった。さすがに投げられっ放しじゃオリンピックの本番に臨めない。そこで康生に『もう1回やろう』と頼んだ。すると『もう嫌です』と断られてしまった。このくらいの貪欲さがないと、オリンピックで金メダルは獲れない。本番では性格の差が出たんです(笑)」
篠原さんは不利な判定に泣き、銀メダルに終わりました。
オール一本勝ちで悲願を達成した井上さん。表彰式では、もうひとつのドラマが待っていました。前年6月に51歳で他界した母・かず子さんの遺影を、ウェアの中にしのばせて表彰台にあがったのです。表彰台の真ん中で遺影を掲げる井上さんの目には、かすかに光るものがありました。
二宮清純 (ライター)
フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。
二宮清純 (ライター)
フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。














