「水の女王」成田真由美の不撓不屈 「今日また自分の壁を乗り越えた」【二宮清純】
スポーツ 連載コラム
2025.09.18
パラリンピックに6回(1996年アトランタ、2000年シドニー、04年アテネ、08年北京、16年リオデジャネイロ、21年東京)出場、競泳で日本選手最多となる15個の金メダルを獲得し、「水の女王」の異名をほしいままにした成田真由美さんが、肝内胆管がんのため9月5日に亡くなりました。55歳でした。
■波乱万丈の人生
成田さんと最後にお話したのは東京パラリンピックの1年延期が決まってしばらく経った2020年9月のことです。インタビュー直前の8月27日、成田さんは50歳になりました。
「本当なら49歳で開会式を迎え、50歳で競技が終了していた。そこで私は辞めるつもりだったのに......」
しかし、計算通りに行かないのが人生です。とりわけ成田さんの場合、ドラマにもないような波乱万丈の人生を歩んできました。
子供の頃は男勝りのスポーツ少女でした。運動会のリレーではいつも花形。体も大きく、小学校を卒業する時には168センチもあったそうです。勉強も得意で何事も一番にならないと気がすまない負けず嫌いな性格でした。
しかし、ここから人生の舞台は暗転します。中学1年の時、下半身が動かなくなってしまったのです。
病名は「脊髄炎」。待っていたのは車いす生活。イライラが募り、落ち込む日が続きます。何よりも人からジロジロと興味本位の視線を向けられるのが嫌だったといいます。
ここで成田さんは開き直ります。
「どうせジロジロ見られるんだったら、思いっきり派手な車いすにしちゃうわ」
そんなある日、仙台市での障害者水泳大会に誘われます。リレーのメンバーが足りないから出て欲しい、という依頼でした。
練習期間は、わずか1カ月。しかし、モノが違っていました。いきなり個人2種目で大会記録を出し、2つの種目で優勝したのです。下半身は使えなくても、上半身のパワーは圧倒的でした。
■「体中、もうボロボロ」
だが、ここでまたしても彼女の身に不幸が降りかかります。東京への帰り道、居眠り運転の車に追突され、首が動かなくなってしまったのです。
普通の人なら、この世を恨むところでしょう。神も仏もいないのか、と。ところが、彼女は身に起きた全てのことを、自らを成長させるための糧として受け止め、水泳に身を捧げることを決意したのです。
6つの金メダルを獲得した2000年シドニー大会の前には、子宮筋腫の手術も受けました。親兄弟が泣いているのを見て、彼女はこう奮い立ったといいます。
「よし、またひとつ試練を乗り越えて、もう一回り大きくなってやろう」
私が知る限りにおいて、成田さんの生活は泳いでいるか病院に入っているかのどちらかでした。股関節の手術だけで7回。「体中、もうボロボロ」と言って苦笑を浮かべている姿が思い出されます。
それでも彼女は泳ぐことを止めませんでした。なぜなら、競泳が唯一の「生きる証」だったからです。
東京大会前には、こんなことを言っていました。
「練習中は本当に苦しくてゴーグルに涙がたまってくる。やり終えると、たまった涙がゴーグルからこぼれ落ちる。その瞬間がたまらなく好き。こんな苦しい練習に耐えられたんだから、明日はもっと強くなれる。今日、私はまた自分の壁を乗り越えることができた。次はもっときついメニューもこなせるはずだと......」
そして、ポツリとこうつぶやきました。
「だから私、どMなんですよ(笑)」
51歳で迎えた東京大会、成田さんは4種目に出場し、女子50m背泳ぎ(S5)の6位入賞が最高でした。それが最後の雄姿となりました。今はただ、心よりご冥福をお祈りいたします。

二宮清純 (ライター)
フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。

二宮清純 (ライター)
フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。