第七回 プロ野球愛宣言!【落語家・立川志らく】〜純粋な子どもの頃に戻れる。ドラゴンズはそういう存在です〜 中日ドラゴンズ編
スポーツ インタビュー
2025.08.20
本職の落語だけでなく、映画監督やコメンテーターなど幅広く活躍されている立川志らく師匠。東京生まれながら、その"深すぎる"ドラゴンズ愛を語ってもらった。
――野球に興味を持ったのはいつ頃ですか?
「小学生の時に、父親に連れられて神宮球場のヤクルト対中日戦を見に行ったのがきっかけです。父親はそこまで野球が好きだったわけでもないけど、男の子だから野球観戦に連れて行こうぐらいの感じだったんじゃないかな。それで野球に興味を持ったのか、神宮で試合を見た後に地元の少年野球チームに入りました」
――東京都出身の志らく師匠が、なぜヤクルトではなく中日だったのでしょうか?
「ヤクルトも中日も当時の自分にとっては知らない選手ばかりですよ 。ドラゴンズが名古屋で、ヤクルトは東京ってことも、小学生だからよくわかっていない。だけど子ども心に青い色が好きだというのもあって、ブルーのユニホームの方に惹かれたというのが一つ。 それから子どもにとって、ヤクルトは飲み物なんですよ。当時、中日が新聞ということはわからないけど、ドラゴンとツバメ。子ども心にね、飲み物でツバメよりも、竜の方がかっこよく思えたんでしょうね。 そこからドラゴンズファンになって、今日まできています。
思い起こすとファンになった年に、ドラゴンズがジャイアンツのV10を阻止するんですよ。20年ぶりにリーグ優勝をして、それでより自分の中で気持ちが強くなったと思います。自分が好きになったチームが、あの強くて有名なジャイアンツを倒して優勝するっていうのを見たから。 その時にもし弱かったら、ここまで火がつかなかったのかもしれないですね」
――当時や現在も含めて、好きな選手は?
「最初に好きになったのは、当時4番を打っていたジーン・マーチンです。当時のジャイアンツには外国人選手はいなくて、ドラゴンズはアメリカ人のマーチンが4番を打っていて、なんかすごくかっこよく見えてひいきにしていましたね。日本人では星野仙一、それから高木守道とか、渋い選手も好きでした」
――これまで見た試合で印象に残っているのは?
「私は落合(博満)が大好きなんです。落合がロッテで三冠王を取った時に、車の中で師匠の談志が『落合先生はすごいなあ、落合先生に逆らっちゃいけない』みたいな風にぼそっと言って、そこから落合が気になり、好きになったんです。その落合がドラゴンズに来た時は、あんなに嬉しいことはなかった。 一番嬉しかったのは、ジャイアンツ戦で斎藤雅樹が投げて、落合がサヨナラホームランを打った試合ですね。8回までノーヒットに抑えられていて、9回にようやくヒットが出て、最後は落合のホームランで逆転勝利。 あれはすごかった。あの興奮はもう忘れないですね。もう日本の球史に残る名場面だと思います」
――その落合選手も、その後はジャイアンツに移籍しました。
「ずっとジャイアンツは嫌いだったんだけど、一回だけ気持ちが揺らいだのが、落合がジャイアンツに行った時。 私は長嶋も好きなわけですよ。その長嶋さんのためにって、落合がジャイアンツに移籍して。その年に勝った方が優勝というドラゴンズとの最終決戦になった。こっちの監督はいぶし銀の高木守道で、向こうの監督は長嶋で、ドラゴンズには勝ってほしいんだけど、 落合にも打ってほしいなと、とても複雑でしたよ」
――あの試合で落合さんはホームランを打ちました。
「ドラゴンズの今中慎二が完璧なピッチングをしていたんですけど、そこで落合がホームランを打った。その時に思わず喜んで、なんでオレは喜んでいるんだって。いやいや、もう打ったから、そこからドラゴンズがひっくり返せばいいやと思っていたら、落合が途中で怪我をするんですよ。それを見た時、なんか複雑な気持ちになって。それで最後は結局、ジャイアンツが勝って、ドラゴンズは優勝できなかったんですけど、TVを見ると、落合が泣いているんですよ。 それを見たときに、ああ、これでよかったと、唯一、浮気というか、気持ちが揺れた。長いことドラゴンズを応援している中で、そんな気持ちになったのはその時だけ。落合がホームラン打って、怪我をして、それで優勝して泣いているっていうね。この試合は負けたけど、忘れられない試合です」
――その試合もそうですが、先日亡くなった長嶋さんの追悼番組を見ていると、引退試合から始まって、節目となる対戦相手の多くがドラゴンズだったことが印象にあります。
「ジャイアンツの最大のライバルはタイガースって世の中では言われているんだけど、 私の中では、ドラゴンズじゃないかと思っています。優勝回数もそうだし、もちろんタイガース戦で長嶋の天覧試合のサヨナラ本塁打とかもあるんだけど、もう節目、節目がドラゴンズ戦というのはすごくあって、なぜドラゴンズとは伝統の一戦と言わないんだろうっていう不満がありました。これは余談だけど、私が二つ目時代に、後楽園球場でジャイアンツのファン感謝デーの余興で呼ばれたことがあって。 私は主催者の人に、『ドラゴンズファンだから出たくない』って言ったんだけど『とりあえずジャイアンツファンとして出てください』と言われて。それで3万人だかいる中で、トークショーをやってね。そこで司会の人がね、『巨人のライバルはタイガース、巨人・阪神が伝統の一戦』みたいなことを言ったんです。それで 私は、『いや、ドラゴンズじゃないですか』って言ったら、 客が笑ったんです。なんかムカついて、『実は私、ドラゴンズファンですけど」』って言ったら、いやいや、またって、ギャグとして受け取られて。 みんな余計に笑うんで、いや、本当に長嶋の引退試合以来のドラゴンズファンだって、『中日ドラゴンズ、バンザーイ』ってやったら大ブーイングで、主催者にすごく怒られましたね。でも宿敵ジャイアンツファンの前で、ドラゴンズバンザーイってやったのは、今となっては武勇伝ですよ」
――これまで中日は9回リーグ優勝していますが、一番印象に残っているのは?
「落合監督が解任になった年の優勝ですね。シーズン終盤に監督解任っていう報道が出てから、ゲーム差も離されていたのに、そこからひっくり返して優勝した。あれだけ離されたら、普通は優勝できないというところだったけど、私は絶対優勝すると思っていました。 その頃は『落合だと客が入らない』とか、『野球が面白くない』って報道などでも言われていましたけど、私の周りのファンの間ではそんなことは聞いたことがなかった。あの当時、落合を辞めさせたい人たちが言っていただけなんじゃないかと思っています。落合監督になってから、あれだけドラゴンズが強くなったのに、クビになってしまった...。これは絶対に野球の神様がドラゴンズ勝たせるぞって、 あの時はドラゴンズファンのほとんどが優勝を確信していたと思います。 選手もみんな落合のやり方を信じてやってきたわけで、日本シリーズが終わった後、みんな選手たちが泣いて、ロッカールームから嗚咽が漏れてきたっていうエピソードもあるわけですよ。だからファンも選手たちも絶対優勝しようとなって、その通りになったあの優勝は忘れられないですね」
――井上一樹新監督が就任した今年のドラゴンズはどうですか?
「まだなかなか上位にはいけないけど、去年までとは野球が違う。立浪和義前監督の時代は、いろいろあって結果は残せなかったけど、ちゃんと選手を育ててくれた。その選手たちが井上政権になってから、少しずつ芽を出しているのは立浪前監督のおかげで、残されたものだと思います。 井上監督は落合チルドレンだけど、ポーカーフェースではなくて明るい感じで、落合的な野球をやろうとしながら、ものすごく喜怒哀楽があって、あの明るさがチームにいい影響を与えていると思います」
――最後に、志らく師匠にとって、ドラゴンズとは?
「自分の中では、純粋に子どもになれる。何かを応援するっていうことでね。 大人になって、還暦を過ぎたりすると、今でいう推し活みたいなことがなかなかできない。でもドラゴンズに関しては、小学生の時に応援しているのと同じ気持ちなんですよね。 帽子とかユニホームとか、ドアラのグッズをもらったりすると、とても嬉しいし、それで童心に返れる。勝てば嬉しい、負ければ悔しいとか、10歳ぐらいの時と62歳の今が、同じ感じなんですよね」
勝てば嬉しい、負ければ悔しい。
10歳の頃と62歳の今が
同じ感じなんです。
Profile
立川志らく
'63年8月16日生まれ。東京都出身。'85年10月立川談志に入門し今年で芸歴40周年を迎える。'95年真打昇進。現在、弟子18人を抱える。落語家、映画監督(日本映画監督協会所属)、映画評論家、エッセイストと幅広く活動。昭和歌謡曲博士、寅さん博士の異名も持つ。TBS系列「ひるおび」レギュラーコメンテーター、MBS「プレバト!」(俳句名人6段)、NHK「演芸図鑑(MC)」など多数出演。
取材・文/大久保泰伸 撮影/中川容邦