元カープ達川光男のドラフト秘話 「運命を変えたコンタクトレンズ」【二宮清純】

元カープ達川光男のドラフト秘話 「運命を変えたコンタクトレンズ」【二宮清純】

広島カープ史上、キャッチャーとして3度ベストナイン(1984年、86年、88年)に輝いているのは達川光男さんだけです。その意味では、球団史に残る名捕手と言っていいでしょう。その達川さんには、ドラフト会議にまつわる知られざる逸話があります。

■運命のパスボール

プロ野球ニュースの「珍プレー好プレー」の常連だった達川さんですが、その球歴は栄光に彩られています。名門・広島商の3年時にはサウスポーの佃正樹さんとバッテリーを組み、甲子園で春は準優勝、夏は優勝を果たしました。

大学卒業後、東都リーグの東洋大に進み、1年年下の松沼雅之さんとのコンビで、1976年の秋季リーグで大学史上初の優勝を飾りました。

そんな達川さんに対する評価は高く、ドラフト会議前の予想では、「3位以内」と見られていました。大卒の即戦力捕手は、どの球団にとっても喉から手が出るほど欲しい存在だからです。

しかし、結論から述べれば、達川さんの指名順位は地元広島からの4位。即戦力捕手にすれば低い評価でした。

いったい、何があったんでしょう。

「忘れもしない大学4年の春季リーグ開幕戦、松沼雅之は東都リーグ連盟タイ記録の9連勝がかかっていた。その記録が途切れたのは僕のパスボールが原因なんですよ。シュートを取りそこなった。本人には"悪いことしたな"と謝りましたよ」

この試合を球場から見ていたのが、達川さんの広島商の先輩で、広島のスカウトをしていた木庭教さんです。

試合後、木庭さんは達川さんの後輩に探りを入れました。

「おい、どうしたんや、タツは?」
「寮でコンタクトレンズを落としたようなんです」
「そうか、あいつ目が悪かったんか......」

当時、プロ野球界には「目の悪いキャッチャーは大成しない」というジンクスがありました。蛇足ですが、あの古田敦也さんも、大学4年時のドラフト会議では、メガネを理由に指名漏れしています。

■パチンコ屋で朗報

達川さんも、コンタクトを使用していることは内緒にしていました。ところが運の悪いことに試合当日の朝、寮の洗面所で流してしまったというのです。

「それで、よくボールが見えなかったんです」

悪いウワサはすぐに広まります。
「どうも達川は目が悪いらしい」
「それじゃ、プロでは使えんなァ」

株価ではありませんが、パスボール以来、達川さんの評価は急落し、視察に訪れるスカウトの数も、日に日に減っていきました。

再び達川さんです。
「一応、どの球団から声がかかってもプロには行くつもりやった。しかし、本音では地元のカープに行きたかった。そりゃ根っからのカープファンやったから......。もし、プロからの指名がない場合は、社会人野球の本田技研和光に進もうと。高橋昭雄監督も、その方がええと言うてました」

ドラフト会議当日、達川さんは埼玉県川越市にある野球部の寮で、会議の模様を見ていました。2位指名までを見終えた時点で「もう、こりゃないな」と諦めて席を立ち、近くのパチンコ店に足を運びました。

ちょうど玉が出だした時です。後輩が息せき切ってパチンコ店に駆け込んできました。「先輩! 指名されました。広島です。4位です!」

振り返って達川さんは語ります。
「コンタクトレンズを落とさんかったら、どこかの球団に3位までに指名されていたかもわからん。結果的にはコンタクトを落としたことで評価が下がり、地元のカープに入れた。まあ、それで良かったのかもわからんね」

「人間万事塞翁が馬」とは、よく言ったものです。

二宮清純

二宮清純 (ライター)

フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。

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