羽生結弦、北京冬季五輪の不運 「一日一善ではなく、一日十善」【二宮清純】
スポーツ 連載コラム
2025.09.04
「オリンピックの借りはオリンピックでしか返せない」。オリンピックに出場したアスリートが、しばしば口にする言葉です。4年という歳月の重みを、その言葉ははっきりと裏付けています。
■「王者」の矜持
最後のオリンピックで、まさかのアクシデント。受け入れ難い不運に遭遇しながら、しかし、そのアスリートは泰然としていました。その姿に「王者」の矜持を見てとることができました。
2022年北京冬季オリンピック。フィギュアスケート男子シングルの優勝予想は、英国の大手ブックメーカー「ウィリアム・ヒル」によると、筆頭がネイサン・チェン(米国)選手でオッズは1.3倍。2位につけていたのが14年ソチ大会、18年平昌大会を制している羽生結弦選手で3.75倍。大会3連覇は難しいと見られていましたが、何が起こるかわからないのがオリンピックです。本番前、羽生選手は「男子で3連覇の権利を有しているのは僕しかいない」と秘めたる思いを口にしました。
2月8日、北京首都体育館。羽生選手は30選手中、21番目に登場しました。ショートプログラム(SP)の演技が始まって、わずか35秒後のことでした。最初のジャンプの4回転サルコウが、わずか1回転になってしまったのです。成功していれば基礎点だけで9.70点、仮にGOE(出来栄え点)で満点(4.85点)の評価を得られていれば、計14.55点を獲得できました。それが0になってしまったのです。
あろうことか、他の選手が掘ったリンクの穴に、踏み切った左足のブレードがはまってしまったことが1回転の理由でした。
よく、「オリンピックには魔物が棲んでいる」といいますが、よりによってこんな場面で魔物が姿を現すとは......。神も仏もあったものではありません。
このアクシデントが響き、スコアは95.15で8位。一方、優勝候補のチェン選手はSPの世界最高得点となる113.97を叩き出し、首位に立ちました。残念ながら、SPが終わった時点で、羽生選手は事実上、メダル圏外に追いやられてしまいました。
■人間の値打ち
演技終了後、羽生選手はブレードが引っかかった位置を確認し、「まじか!はまった」とつぶやきました。無念さは察して余りあります。
羽生選手が立派だったのは、演技後の記者会見です。整氷の不備など、不満めいたことは一切口にせず、「いやぁ、もうしょうがないですね」と苦笑を浮かべ、こう続けたのです。
「他のスケーターの穴があって、(ブレードが)はまっちゃった。跳びにいったが、頭が体を防衛してしまいました」
そして、こうも。
「それでも95点出していただけたのはありがたい。それだけ他のクオリティーを高くできた。自分を褒めてあげたい」
羽生選手のファンは世界中にいます。このアクシデントを受け、SNS上では、誰が穴をつくったかについて、"犯人捜し"が始まったといいます。
しかし、羽生選手はアクシデントを誰かのせいにするのではなく、「しょうがないですね」と受け流し、「氷に引っかからないように、一日一善ではなく、一日十善くらいしないといけないのかな」とジョークにくるむ余裕を見せたのです。いや、これは余裕というよりも、羽生選手の生来のスポーツマンシップ、もっといえば人間性のなせる業だったようにも思われます。
絶望のどん底で、どう振る舞うか。人間の値打ちは、そこで決まるのです。