日中合作連続ドラマ「私たちの東京ストーリー」のプロデューサー・張麗玲が語る「自分の一生の使命と責任」
国内ドラマ インタビュー
2025.05.20
1990年代初頭の東京を舞台に、夢を抱いて中国から東京へやってきた林凛(りんりん)と、彼女をとりまく日本と中国の人々の姿を描いた全10話のドラマ「私たちの東京ストーリー」。本作のプロデューサーで、日本初の中国語テレビチャンネル「中国テレビ★大富チャンネル」の社長でもある張麗玲(ちょうれいれい)さんは、自身も林凛のように留学生として来日し、その後、日本で生きる中国人留学生を記録したドキュメンタリーを制作。日本と中国をつなぐ仕事に人生をかけてきた。そんな彼女に、ドラマや日中の絆への思いを聞いた。
――主人公の林凛はご自身がモデルですか?
「社会人になってからの描写には私の経験も入れていますが、主人公を含めこのドラマの登場人物には、あの時代のいろんな留学生たちのことを盛り込みました。私はメディアの仕事でしたが、留学生の中には金融家や実業家、芸術家などになって成功している人も少なくないです。周りのさまざまな人に支えてもらいながら、みんな多くの困難を乗り越えました」
――ご自身も留学生だったそうですが、留学前はどのような少女時代を過ごしたのでしょうか?
「文化大革命で下放された両親の苦労を目にしていたので、人が生きる意味は何だろう?と、そんなことばかり考えていました。でもある日、見に行った映画に感動して、将来こんなふうに人の心を感動させられる仕事をしたいと思いました。その後、高校時代に学校でスカウトされて、北京で俳優としてドラマや映画に出ていたんです」
――俳優として活躍されていたのに、留学を決めたんですか?
「中国で改革開放政策が始まって、一般の人が国を出られる初めてのチャンスとなりました。優秀な人や家庭にコネや地位のある人などはみんな国を出たがり、どんどん出ていくなかで、私もとにかく自分の国以外のところに行ってみたかった。何も考えずに飛行機に乗って、成田空港に着いてから初めて人生というものを考えました」
――日本に到着したときはどんな気持ちでしたか?
「それが、北京から出国する飛行機が予定通りに日本に到着できなかったんです。今みたいにメッセージを送ったり、国際電話も簡単にできなかったので、家族に安否を知らせることさえできないし、空港についても迎えの人がいなかった。でも私と同じような運命の人が何人もいました。当時はみんなスーツケースを7~8つぐらい、3カ月は生活できるような物資を持ってきて、初めての海外ですから、興奮や不安など、いろんな気持ちで複雑な表情をしていました。私は俳優で人を観察するのが好きだったので、これは絶対演じられない表情だ、このままついていったらすごいストーリーになると思いました。その時に、人間ってすごいなと衝撃を受けたんです。こんなふうに夢ひとつだけを持って、そのためにすべてを捨てることができる。その夢も、昔、日本に留学した先人たちは国や民族のためなど大きな夢を抱えていたと思うんですが、私が見たのは初めて自分の夢のために国を出た人たちだった。その勇気とパワーに圧倒されました。これを心に刻んで、そして記録しなければいけない。これが後にドキュメンタリーを撮ることにつながるのですが、私の来日後6年ぐらい経った頃に中国から来た留学生に会った時、持っていたのはスーツケース一つだけ。"この中身を使い終わったらどうするの?"ときいたら"買えばいいですよ"と。私たちの時代はもう過ぎた、自分たちの時代、私が圧倒されたみんなのすごさを記録する必要がある、と企画書を書いたんです」
――そして「私たちの留学生活~日本での日々~」というドキュメンタリーを製作され、それは日中で大きな評判となりました。それから今回はドラマ「私たちの東京ストーリー」の製作となったわけですが、撮影はいかがでしたか?
「大変でした。スタッフは助監督とスクリプターが中国人であとは通訳以外全員日本人でしたので、脚本を中国語版と日本語版と作らないといけなかったし、当初は脚本が20ページもオーバーしていました。やむを得ず徹夜でオーバーした部分をカットしたのですが、結局は映像が足りなくなって(笑)、車で走って東京の実景をたくさん撮って入れました。中国の放送も意識していますから、日本の素敵な風景を入れられたのはよかったです」
――ドラマを見て、互いを知ることが大事だというメッセージが心に響きました。
「国と国の相互理解は、単なる概念ではなく、人と人との温かい交流を通じて築かれるものです。異なる国や時代、価値観や習慣の違いがあっても、人間である以上、人としての心は通じ合うものだと思います。家族や友人を大切にする気持ち、善良さや感謝の心、一生懸命に生きる姿の美しさなど、互いに誠実に向き合うことで、時代や国境を超えて素晴らしい関係が築かれるのではないでしょうか。それは国も個々人も同じだと思います」
――これからも日中の架け橋となるお仕事をされていくのでしょうか?
「日本と中国の間での仕事は、自分の一生の使命と責任だと思いますので、やり続けるつもりです。中国には"一滴の水のような恩にも、湧き出る泉のような大きさでこれに報いるべし"ということわざがあります。私は大学院卒業後に就職した大倉商事で素敵な日本の方たちと出会い、日本と中国の両方からたくさんの恩恵をいただいているという思いがあります。それでも自分が大富の社長になると思わなかった。ふさわしい人が出てくるまでと思っていたら、もう27年過ぎました(笑)」
――これからドラマを見る方にメッセージをお願いします。
「何も持たず、ゼロからのスタートだった留学生たちが、日本で出会った人々に支えられ、どんな困難があっても前向きに頑張っていく姿を見て、感動や勇気を持ってもらえたらいいなと思います。今、国際化が進み、日本にも外国人が増えています。どの時代にも、それぞれ厳しい課題や、次から次へ乗り越えなければならない壁があります。若い方々には国際的な視野を持ち、隣国や世界中の人々と心を通わせながら、どんな困難に直面しても諦めず、みんなが幸せに生きられる社会を共に築こうとする姿勢を持ってほしいと願っています。」
撮影/菊竹規 取材・文/熊坂多恵