年末の風物詩「忠臣蔵」がよく分かる!武士道と忠義に生きた赤穂浪士(あこうろうし)に迫る
年末の風物詩としてドラマなどの題材に取り上げられてきた「忠臣蔵」。赤穂浪士による吉良邸への討ち入りを基にしていることは広く知られているが、あらためてどのような事件だったのかを紹介する。
江戸城松の廊下刃傷(にんじょう)事件と赤穂藩への幕府の裁定
元禄14年(1701年)、江戸城本丸御殿内大廊下(通称、松の廊下)で、赤穂城主の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、幕府高家の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を小刀で斬りつける事件が起こった。吉良上野介は眉間と背中を斬られたものの、傷は浅く、命に別状はなかった。そして、浅野内匠頭は居合わせた者に取り押さえられ、即日切腹、赤穂藩は取りつぶしとなった。浅野内匠頭は吉良上野介から礼儀作法の指導や指示を受けながら、天皇の使者をもてなすことになっていた。しかし、吉良上野介からさまざまな嫌がらせをされ、我慢の限界を超えた浅野内匠頭が刃傷事件を起こしたとされる。
下された裁定に対して、赤穂の浅野家では「素直に従う」という意見や「幕府に抗議する」、あるいは「全員で切腹して反抗心を示す」など、さまざま意見が出たが、最終的には「裁定に従うが、喧嘩(けんか)両成敗を求める」という方針で一致した。当時は喧嘩両成敗、つまり是非を問わず、双方に同等の処罰を与えるというのが通例だった。しかし、この時は浅野内匠頭が即日切腹で、赤穂藩は取りつぶし、城の明け渡し、領地没収という処分を受けたが、吉良家、吉良上野介には一切罰は与えられなかった。それが、次なる行動を起こす理由となった。
赤穂浪士が主君の無念を晴らすために選んだ道
浅野家の筆頭家老・大石内蔵助(おおいしくらのすけ)は、幕府の裁定を不服とし、主君・浅野内匠頭が理不尽な形で命を絶つことになった無念を晴らすべく、吉良上野介を討ち取ることを決意。ただし、全員に強制的に参加させたわけではなく、本気で討ち入りを果たしたいと考える者だけに絞り、47人の義士が残った。討ち入り計画は秘密裏に行われ、浅野内匠頭の切腹から1年10カ月後、元禄15年(1701年)12月14日の夜、討ち入りを決行。表門と裏門から同時に攻め入り、吉良邸には100人以上の侍がいたとされているが、夜明け前に隠れていた吉良上野介を発見し、ついに首を討ち取る。そして、泉岳寺にある浅野内匠頭の墓前に首を供えて、敵討ちの成功を報告した。
この赤穂事件を題材とした人形浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」が、寛延元年(1748年)に上演され、それが赤穂事件を「忠臣蔵」と呼ぶきっかけとなった。「忠臣蔵」が長い間、多くの人に支持されてきたのは忠義、そして人を思う姿に打たれたからだろう。47人の義士、一人ひとりに物語があり、そこにある人情はどの時代にも通じるものがある。
映画とドラマで描かれる「忠臣蔵」の作品ごとの魅力
討ち入りが決行された12月、時代劇専門チャンネルでは、「忠臣蔵」の3つの物語が放送される。1981年に放送されたドラマ「忍びの忠臣蔵」は、1人の公儀忍者の目を通して、浅野内匠頭の切腹から赤穂浪士の吉良邸討ち入りまでを描いたハードボイルドな時代劇となっている。岩井半四郎が演じる大石内蔵助を監視する隠密・貝塚慎吾を萩原健一が演じている。1962年公開の映画『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』は、東宝の創立30周年を記念して製作された大作で、大石内蔵助を八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)が演じ、史実には登場しない槍(やり)の名手、俵星玄蕃(たわらぼしげんば)を三船敏郎が演じている。そして、1991年に二部構成で放送されたドラマ「忠臣蔵 風の巻・雲の巻」は制作期間に1年を要し、多くの「忠臣蔵」エピソードを取り入れて、「忠臣蔵」のことを広く知ることができる作品に仕上がっている。浅野内匠頭を中井貴一、吉良上野介を大滝秀治、大石内蔵助を仲代達矢が好演。また、脇坂淡路守(わきさかあわじのかみ)役で北大路欣也、天乃屋利兵衛(あまのやりへえ)役で北島三郎も出演した。同じ題材を描きながらも、捉え方、視点が異なっており、3作品を見ることで「忠臣蔵」のことをより深く知ることができる。
文/田中隆信