クリープハイプ尾崎世界観の「好きな映画で話し込む」<第1回>『ほつれる』

尾崎世界観

尾崎世界観 (クリープハイプのボーカル・ギター)

ロックバンド「クリープハイプ」のボーカル・ギター。 小説『転の声』が第171回芥川賞候補作に選出。小説家としても活躍する尾崎世界観が、好きな映画を語りつくす。

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尾崎世界観 (クリープハイプのボーカル・ギター)

ロックバンド「クリープハイプ」のボーカル・ギター。 小説『転の声』が第171回芥川賞候補作に選出。小説家としても活躍する尾崎世界観が、好きな映画を語りつくす。

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クリープハイプ尾崎世界観の「好きな映画で話し込む」<第1回>『ほつれる』

小さい頃は、よく近所のビデオ屋で映画をレンタルして見ていました。家族でご飯を食べに行った帰りにビデオを借りるという流れが恒例だったんですけど、夜に外出している高揚感や、ビデオ屋の独特な空気感が新鮮で楽しかったのを覚えています。それから小学校5、6年生になると、雑誌「ぴあ」の映画コーナーで作品を探して、友達同士で映画を見に行くようになりました。その時期は、作品を見るのはもちろんのこと、映画は自分がどこかに出かけるきっかけとしても大切なものでしたね。映画館の場所を調べることで知らなかった地名を覚えたり。それはライブハウスも一緒ですね。中学生になると「SCREEN」や「ロードショー」のような映画雑誌を買っていたし、テレビ東京で土曜の夜にやっていた「シネマ通信」という番組が好きでした。あと「虎ノ門」(テレビ朝日)でやっていた、井筒和幸監督の「こちトラ自腹じゃ!」というコーナーも好きだった。そういうものを通して、映画にも小説や音楽と同じように批評があることを知っていきました。バンドをはじめてからも、誰かと会うきっかけとして映画を観ることは多かったです。バンドの先輩と月に1回、一緒に映画を観て、そのあと飲みに行くということをやっていた時期もあります。

昔から、わかりやすい映画というよりは、簡単に理解できないような、どちらかと言うとわかりにくい映画に惹かれます。見方の正解が決まっている映画もたくさんあると思うけれど、そうではない映画もたくさんある。もちろん、ただ「わかりづらければいい」というわけではないとも思います。

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今回選んだ『ほつれる』は、最近観た映画の中でも特に「いいな」と思った作品のひとつです。観始めてすぐに「これは面白い作品だろうな」と思いました。特にセリフの感じが好きでしたね。喋っている内容もそうなんですが、俳優さんたちの喋り方自体が、見られていることを意識していない感じがするんです。その点が、いわゆる「映画っぽい」セリフ回しとは違う。なので、こっちも「見ている」というよりは「見ちゃっている」という感覚で、この映画に向き合うことになる。「映画っぽくない映画」というか、観ているこちらにも少し罪悪感が生まれて、でも、それが楽しい。自分が今まで観たことのないタイプの映画でありながら、自分が知っている世界が描かれている――そんな作品だと思います。普段映画を観る時に、「映画とはこういうものだ」と、自分が生きている日常とは違う世界のことも自然と受け入れていると思うんです。でも『ほつれる』は、「リアルってこういうものだよな」と思わせてくれます。物語の前半で大きく話が動くけれど、一貫してずっとリアルな感覚がある。自分が生きている世界の延長線上にある映画作品として見ることができる。

加藤拓也監督は演劇出身の方ですが、今まで当たり前に存在してきた映画の在り方に対して違和感がちゃんとあって、それを意識しながら映画を作られているんだろうと思います。何かに違和感を抱えている作り手が好きなので、そういう意味で、『ほつれる』は観ていて安心できる。以前、加藤さんが監督されたドラマ「滅相も無い」(MBS/TBSドラマイズム)の主題歌に、クリープハイプで"喉仏"という曲を提供させていただいた時に一度ご一緒しましたが、冷静に物事を見ている方だなと感じました。そこに完全に入り込むというより、ちょっと遠くから眺めるように物事に向き合っている印象があって、ご本人と作品のイメージがすごく合っていました。

加藤さんの作品は、ちゃんと「優しくない」んです。作り手として、優しくない。これはすごく大事で、作り手に必要なことだと思います。「本当はこんなもんじゃないだろう」という疑問や憤りが、作品に出ているかどうか――それは自分でも作品を作る時に大切にしていることです。『ほつれる』は物語が進むに従いどんどん悪い方向に進んでいきますが、どんなことも「続く」ものじゃないですか。どんなに「幸せだ!」と思うようなことがあっても、逆に「最悪だ」と思うような絶望的なことがあっても、それで終わりではなく、物事には必ず「事後の処理」がある。それは自分で生活をしていても感じることです。『ほつれる』にはそういうところまで描かれている。ただ盛り上がるところで終わればいいわけではなく、「人間ってこんな感じだよな」というところまで描かれているんですよね。そこも、この作品が「映画らしい映画」とは違うと感じるところです。今まで知っていた映画のほとんどは、感動させるポイントで終わるか、あるいは後味の悪い映画でも、これ以上ないくらい最悪なところで終わるものが多かった。でもリアルはそうではなく、終わったあともまだ続いていく。もちろん映画をどこで終わらせるかは作り手の自由ですが、『ほつれる』は物事を長く見つめている作品だと思います。そういう作品は信用できますね。

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取材・文/天野史彬 撮影/中川容邦