「五輪得点王」釜本邦茂の自尊心。「登録はアマでも精神的にはプロ」【二宮清純】

W杯出場の常連国となった日本。サッカーの本場・欧州の5大リーグ1部(イングランド、スペイン、ドイツ、イタリア、フランス)でプレーする日本人選手は30人を超えています。それでも、今回の主人公・釜本邦茂さんを超える日本人ストライカーは、まだ現れていない、というのが定説です。

■銅メダルの立役者

1968年メキシコ五輪の銅メダルは、今も燦然と輝く日本サッカーの金字塔です。この大会で、釜本さんは7ゴールを挙げ、得点王となりました。

以下は生前、釜本さんから聞いた話です。
「(メキシコ五輪の)目標はベスト8でした。その4年前の東京五輪は、決勝トーナメント初戦敗退でベスト8。まずはそこに並ぶことがひとつの目標でした。当時、日本に、サッカーのメダルを期待する人はいなかったので、ある意味、気楽でしたね。
勢いがついたのはグループリーグ第1戦のナイジェリア戦。僕がハットトリックを決めて3対1で勝った。これで"こういうやり方をすれば勝てる"とわかったんです」

メキシコ五輪全6試合で、日本は9ゴールあげました。先に述べたように、そのうちの7点が釜本さん。7点のうち5点をアシストしたのがFWの杉山隆一さん。絵に描いたような"堅守速攻"でした。

3位決定戦の相手は、開催国のメキシコ。アステカスタジアムは、10万人の大観衆で埋まったといわれています。

テクニシャン揃いのメキシコにボールを回される中、日本は虎視眈々と得点機を窺います。まずは前半18分、杉山さんのクロスを胸でトラップした釜本さんは、迷うことなく左足を振り抜きました。1対0。続く39分、またしても杉山さんからのパスを受けた釜本さん、今度は得意の右足で決めました。2対0。

日本にとっての最大のピンチは、後半早々に与えたPK。これをGK横山謙三さんが止め、メキシコの勢いをそいでみせました。

釜本さんによると、試合は「3対7くらいで押されていた」ものの、数少ないチャンスをモノにした日本が2対0で勝利しました。

■代名詞は「右45度」

五輪の得点王を世界が放っておくわけがありません。大会前後から、釜本さんの元には海外の有力クラブからオファーが届いていました。

ところがメキシコ五輪の翌年、釜本さんはウィルス性肝炎にかかり、移籍話は破談になってしまいました。

若き日の釜本さんには、憧れの選手がいました。ポルトガル代表FWで、66年のW杯イングランド大会で得点王に輝いたエウゼビオさんです。モザンビーク出身の彼は"黒豹"と呼ばれていました。

「(68年に)西ドイツに留学した時、図書館で昔のフィルムを見て、"自分はどういう選手を目指すべきか"を勉強しました。そこで目に止まったのがエウゼビオです。彼のプレーは至ってシンプル。ボールを受けて、ディフェンスをかわしてシュートする。ただ、それだけ。余計なことは一切やらない。ああ、これだと思いましたね」

釜本さんがマークした日本リーグでの通算得点は202、日本代表での得点は75。いずれも、アンタッチャブル・レコードです。強く、速く、しかも正確な「右45度」からのシュートは、釜本さんの代名詞でもありました。

日本サッカーは、長い冬の時代を経て、93年のJリーグ開幕を機に、一気にメジャースポーツの仲間入りを果たします。

「生まれてくるのが、あと20年、いや15年遅かったら......。そんなことを考えたことはありますか?」

そう問うと、釜本さんは「それはないね」と言下に否定し、きっぱりと答えました。

「僕は登録こそずっとアマチュアだったけど、精神的にはプロフェッショナルな気持ちで戦ってきた。本物のプロフェッショナルは、技術的にも精神的にもアマの範とされる。それが本当の意味でのエリートやと思うんです」

釜本さんをして"不世出のストライカー"たらしめたもの――それは、揺るぎない自尊心でした。

二宮清純

二宮清純 (ライター)

フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。

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フリーのスポーツジャーナリストとして五輪・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。スポーツ選手や指導者への取材の第一人者・二宮清純が、彼らの「あの日、あの時」の言葉の意味を探ります。

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